そして、私は下山した

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標高2700mの山小屋。5月だというのに、そこは一面、銀世界。夜になれば気温は一桁、風が吹けば体感温度は氷点下以下になる。ダウンを着込み、登山靴を履いて外に出るのが日常だ。

「寒いね。」

彼女はヘリポートに、一人で立っていた。

そのときの細かい情景はもう思い出せない。ただ、心臓の音がバクバクと響き、頭の中はまるであたりの雪景色のように真っ白だった。星と山に囲まれた静かな夜、私はもう一度、自分の想いを伝えた。

そして彼女は、はにかむようにこう言った。

「よろしくお願いします。」

出会ってまだ2週間。それでも、あのとき彼女は、確かに私の腕の中にいた。


当初、私たちはしばらく内緒で付き合うことにした。仲間に冷やかされたり、気を使わせたりするのは避けたかったし、何より「二人だけの秘密」にはちょっとしたスリルとワクワクがあった。

とはいえ、山小屋の生活では自由時間がとにかく少ない。夜の自由時間は消灯前の20時半から22時くらいまで。翌朝は4時や5時起きなので、あまり夜更かしもできない。

それでも、皆と厨房で過ごした後、少し早めに寝るふりをしてこっそり抜け出したり、夜景を観に行くふりをして会ったり…。2~3日に一度、たった1時間ほどの「二人の時間」。だからこそ、その時間は驚くほど濃密だった。


山小屋には「マイカップ」という習慣がある。自分専用のカップで、私のには “chan.” と書いてある。

ある日、そのカップに小さなハートマークが描かれているのを見つけたとき、胸の奥がふっと温かくなったのを覚えている。


しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。

5月末、あの日、思いがけない“事件”が起きた。

まさか、上山して1カ月余りで下山することになるなんて――。

(つづく)

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